海外子女教育
海外子女教育
1987年2月
堂本暁子(TBS報道局・ディレクター)


上智大学法学部助教授の猪口邦子さんは、中学時代をブラジルのサンパウロで、さらに高校時代の10ヵ月をアメリカでと、異文化にもまれて育った帰国子女である。

新進気鋭の国際政治学者として、テレビや雑誌などマスコミ界で、さらに大蔵省財政金融研究所の特別研究官を勤めるなど、ここのところ各分野での猪口邦子さんの活躍は目覚ましい。お会いしたことはないが、海外帰国子女問題について電話で話し合ったことがある。

帰国子女というと、とかく日本の学校への不適応やいじめ、登校拒否など、問題児意識をもつ教師が多いなかで、猪口さんはプラス面を強調  する。

「上智大学は受け入れ校ですから大勢の帰国子女をみてきました。さまざまな可能性を感じます。時には、彼等のもつ行動力や積極性が他の学生に影響を与え、消極的だったクラスを活性化することもあります」。しかも、そうしたクラスのリーダーシップをとる帰国子女が増えているという。

小学校から高校まで、12年間の徹底した管理教育は、日本の子供たちを画一化するといわれてすでに久しい。画一化された日本人像など、考えただけでも恐ろしいが、子供たちの個性がそう簡単に押しつぶされるとも私は思っていない。

ただ、教育現場の取材を通して、日本の学校の教室は、自分の意見を明確に伝える能力、自己の感性を豊かに表現する能力を強化、育成する場でないことだげは実感した。意見は教師が期侍する範囲にとどめ、意表を突くような発想をもっても、子供なりの自己規制が働くのか、発言しようとしない。

しかし、子供たちや若者たちは、大人を越えた新鮮な感性をもつ。それが自己表現の巧みな帰国子女たちに触発されて、まるで休火山が噴火するように、クラスのエネルギーが吹き出すのは面自い。

一方で、帰国子女の自己主張を認め、積極性を評価し、彼等が浮き上がらないような場づくりのできる猪口さんのような指導教官のクラスであればこそ可能なのだろうか、とも思えた。指導者のスケールが、若者たちの可能性を引き出しもするのであろう。

次に、猪口さんは専攻の国際政治学、政治経済学の視点から、長期的にみると、単一の文化しかもたない日本の経済社会は、次第に衰弱する趨勢をもつという。それを食い止めるのには、刺激となり、触発の役を果たす異質な文化を取り込む必要がある。

しかし、日本ほど外国人や難民など異民族を受け入れることの下手な国はない。日本流の人間関係からまるで油が水を弾くように異質な人間を差別し、弾き出す。帰国子女が苦労するのも、この同じ体質のためだが、帰国子女は外国人でないから弾き出したり、追い出したりはできない。自分たちの子供であり、子孫なのだから……。

「それだからこそ、帰国子女が貴重なのです。日本人でありながら、異質な文化を身につけたかけがえのない存在」と、猪口さんはいった。彼等こそ、異文化を日本社会に注入する生きたパイプの役たり得るのである。聞きながら、大胆でユニークな発想をもつ猪口さんも、まさにその役を果たしている帰国子女の一人だと感じた。

この1年間で、私は大勢の海外子女、帰国子女に会った。幅のある人間性、鋭い感性、卓越した才能、そしてどん欲なまでに自己の領域を拡張しようとするバイタリティーを彼等のなかにみた。帰国直後は、日本の学校になじめずに苦労した子供たちも、カルチュアショックを克服し、時には、それを栄養にしてたくましく育つ。

教室という同年代集団を離れ、社会に出てから自分らしく生きる場を探し当て、日本で育った若者にはまねができないほど多角的な仕事ぶりを展開している人たちにも出会った。複数の異文化を身につけた個性が、国際的な経済や外交の舞台で、学問の領域で、芸術やスポーツの分野でめきめきと頭角を現わしている例も多くなった。

まず、入社試験の面接でそれを感じる、と前にも書いたが、今年も面接官をやっていて、鋭い判断力と勇気をもった帰国子女のH君に会った。中学時代を西ドイツで過ごしたH君は、自己主張が強いわけではなく、むしろ控え目な青年だった。

H君は、採用が内定しているN社の合宿とTBSの面接日が重なったので、その日の朝、N社への入社を断ってから会場へ来たという。  「他の会社を受験していながら、N社に就職するような顔をして合宿に参加するのはあまりに不誠実だと思ったので……」と、彼は、私たちの質問にボソボソと答えた。

「でも、ここの会社に入れなかったら?」「それを考えて昨夜は寝られませんでした」といった。マスコミ界を志望し、面接日や試験の日、さらに合宿日が重なると、別の日に面接をして欲しいとか、時間をずらして欲しい、と不条理な申し出をする学生が多いなかで、H君の真面目な態度は光った。

西ドイツでは、将来、日本の企業に就職したいと思ったので、現地校に入らず、両親とも相談をしてH君は日本人学校に入ったそうである。多くの帰国子女が、若い時から厳しい人生の選択を迫られる。その体験のためばかりとはいえないかもしれないが、H君の態度にはごまかしがなく、その誠実な人柄に好感がもてた。最終的にH君はA新聞社を選んだ。

将来、ジャーナリストとして、スケールの大きい仕事をして欲しい、と願っている。

海外帰国子女に共通している特徴が2つあるように思う。1つは、精神的な強さである。大人の感覚といってもいい。特に現地校に通った子供たちは、自分の意志とは無関係に、外国語の勉強、外国の習慣や考え方になじむことを強制される。大きな試練である。

努力を重ねて、その壁を克服した子供たちは、精神的にも鍛えられるのであろう。「日本の学校の生徒って、幼椎で、子供っぽい」との感想を何人もの帰国子女から聞いた。

第2に、最近よくいわれる“第三の文化”かもしれないが、発達期の子供たちが何年間かを異文化の国で育つと、日本とその国の文化が子供のなかでぶつかり合い、時には融合して第3の可能性が芽生える点である。

国と個人を同一視することはできないが、猪口さんが単一文化国の疲弊を防ぐためには異文化の混入が必要だといったように、個人の場合にも異文化は意外な作用をもたらす。

日本の文化にどっぷり潰かって育つ子供たちからは期侍できない、或る種の突然変異ともいえる予想外の才能を多かれ少なかれ発揮する点である。2色の絵の具を混ぜた時、そこには新しい色ができる。赤と黄を混ぜたら、赤は決して赤のままではない。

文部省や臨教審が、どのような意味で“国際人”という言葉をつかっているのか知らないが、海外子女は日本を軸に外国語や海外経験をまぶしたような人間にはならない、といいたい。そこが大人と子供の差である。中途半端な外国語や薄っぺらな海外経験を売りものにしている大人のエセ国際人は多い。帰国子女は、エセ国際人のミニチュアではない。

また、決してそうあってはなるまい。極論すれば、国際人を越えた世界人が日本から生れることが大切なのではないだろうか。  今迄、5回にわたって、海外子女が外国で経験するストレスや混乱、挫析といったマイナス面を取り上げてきたのは、海外子女への期待が大きいだけに外国での教育をより安全かつ効果的に行って欲しいからである。

北米に於ける極端な現地校主義の危険性には前にもふれた。日本の学校からアメリカの学校へ移行する間のバイリンガル教育、特に小学校の低学年に対する日本語教育などについての配慮がほとんどない。今は、「異文化社会」というプールに子供たちを突き落とし、自然に泳ぎを身につけさせている。

プールサイドでのウォーミング・アップや、泳ぎ方の手ほどきをすれば子供たちに無駄な恐怖心やストレスを経験させずにすむ筈である。会話能力はついても学習能力が欠落してしまったり、言語の混乱や劣等感が尾を引いたりしないような教育が望ましい。

日本の文化は特殊である。それだけに異文化と混じる時の抵抗は大きい。そうした部分への科学的な教育方法の研究があまりにも遅れているのではないだろうか。さらに、きめ細かい施策が大人の側にないから、子供たちが必要以上に苦しむことになる。

逆に日本人学校はあまりにミニ日本である。せっかく異文化の空気を吸いながら実質的に異文化を吸収できるような工夫が、これまた少ない。日本の海外子女教育が地域や量の問題以前に、質的に現地校と日本人学校に二極分解している、と考える所以である。

多くの可能性を秘めた子供たちのためにもっと充実した海外子女教育の在り方を模索して欲しい。  最後に、私は、一つの独白をしなければならない。私自身も帰国子女だということである。生まれたのはアメリカ、カリフォルニア州。生後6力月で帰国。4歳で再渡米。

幼椎園から小学校の1年生まで滞在した。補習校などない時代だったからすっかり日本語を忘れた。帰国して入ったのは赤坂台町に開校したばかりの、いまでいう帰国子女受け入れ校である啓明学園で、隣の席に小野ヨーコさん、後ろに慶應義塾大学経済学部教授の佐々波楊子さんがいた。

佐々波さんは「同窓会だより」に次のように書いている。「英語と日本語がチャンポンにとびかう学校での日常行事はアーギュメント、即ち『口論』『喧嘩』。その頃の啓明の学級編成ではせいぜいクラス3、4人の小集団であったから、皆が仲良くするかといえばさにあらず。

そこには自己主張のはっきりした欧米育ち、日本文化特有の「協調性」や、どこぞの方がお得意の「私の精神」などどこ吹く風、『口論』『喧嘩』に毎日精を出したものである。

その後、この独特の学園生活も戦争の波にのみこまれてしまったけれども、台町での日々こそ異文化体験で鍛えられた個性豊かな子供たちに日本の教育を与えた場合にはどう育つかという一つの実験の場ではなかったか」。

佐々波楊子さん自身が日本からの国連職員の女性第1号として、国連の場で幼児期の異文化体験をみごとに花開かせ、帰国後は若くして慶應大学の教授になった。

小野ヨーコ・レノンについては説明の必要もない。世界で最も知名度の高い日本人は小野ヨーコさんなのだそうだが、これも日本中心の発想で、もう彼女は文部省のお好きな「国際人」の域をはるかに越えて、「世界人」として生きている、と間違いなくいえよう。

才能と異文化体験をプラスに全開させた二人の同級生と違って、私は海外子女のマイナスを非常に多く背負った。アメリカから帰った翌年、大平洋戦争がはじまった。毎日、教室で忠誠を警った星条旗は敵国の旗、英語は敵国語になった。「鬼畜米英」の時代は、幼い子供なりに価値観が大揺れに揺れた。

英語も日本語も嫌いになり、言語劣等感となって私のなかに定着した。50代の今にいたるまで、それはつづいている。それだけに、アメリカの小学校で会った子供たちが、「先生の言葉が雲のなかみたい」とか「英語が雑音にしか聞こえない」という時の不安は痛いほどわかった。

一方で、混乱や動揺は、精神を常に流動的な状態に置く。柔軟である。お陰で私は妙に固まってしまうことなく育ったように思う。そのためか、中国へ行くと「あなたは中国人」といわれ、チベットへ行けば「あなたは前世はチベット人にちがいない」といわれ、どこにでも適応してしまうのか、外国に対する緊張感があまりない。幼少期の影響なのかと思つている。

何を書くにも、自分なりの実感が海外帰国子女問題についてはあった。そして何より、今後、ますます増えるであろう海外子女、帰国子女に幸福であって欲しい、身につけた異文化を大事にして欲しい、と願う。

これから帰国子女の時代がやってくる。世界各地で育っている子供たちに、心からの声援を送って筆をおきたい。