クロワッサン
ジャーナリストであることは、
常に自分の限界に挑戦し、闘うことでもあるんです
1988年1月10日
堂本暁子(TBS報道局ディレクター)


「今年の8月、アフリカに仮面の取材で行ったんです。そのときに一番痛切に感じたことは、文化の違いでした。アフリカの文化は、文字通り感性の文化なんです。

文字を持たない五感の文化なんです」
そのことだけでも、文字文化の国、日本で生まれ育った堂本さんには衝撃でした。もっと衝撃的なことがありました。アフリカの子どもたち、大人たちのなんと生き生きとしていること。

生活に疲れた大人たちや、無表情の子どもたちを見慣れた堂本さんは、そこでこう思いました。
「文字を持つことで逆に感性を失っているのではないか。本当に、そのことが顕著に感じられたんです」
まるで望遠レンズのように見通せる目、クムクムの微抄なリズムの違いを聞きわける鋭敏な耳、獣のように遠く走ることのできる肉体を持つ彼ら、アフリカ人たち。

「五感のすべてが、日本人よりもはるかに研ぎ澄まされているんです」五感ばかりではなく、アフリカの人たちは感性も豊かだったのです。旅の途中、西アフリカのコートジボアールを訪れたときのことです。

「一人として同じ服装をしていないんです。民族衣装の腰布の色も違えば、巻きつけかた、垂らしかたも違うんです。めいめいが自分のTPOを持っているんです」
ショウウィンドウやファッション雑誌から抜け出てきたような日本のファッションを見慣れた目には新鮮でした。

この旅で、自らの感性のおもむくまま自然に暮らしているアフリカ人たちを通して現在の日本の危機的な状況が更に鮮明に見えてきました。

「感性よりも知識優先、技術優先。そこに価値観を置いていることが今日の日本の状況を作り出したのでは、と思ったのです」
知識と技術で作り出した人工的とも言える都市環境。自然は、そこでは敵対するものでなく一見、征服されてしまったものとして映ってしまう。

「自然との闘いの中で生活していると憤りや喜びやつらさも大きい分だけ感受性も豊かになる筈です。全人口の4分の3が都会に住んでいる今の日本では、どんどん感性が衰えていってしまうのは無理もないことだと思うんです」
それにつめ込み主義の規則だらけの教育が拍車をかけているのでは、とも堂本さんは言います。

「鉛筆ば六角形でなくてはいけない。下敷きの色も白と黒でなくてはいけない。こうした画一的な教育環境の下では豊かな情趣が育つはずがないと思うんですよ」
人間がまるでロボットのように扱われているのです。登校拒否児は、こうした状況の下ではまるで欠陥商品であるかの如く扱われてしまっています。

「オールジャパンでそういうことをやっているんです。学校でも家庭でも」
アジア、アフリカ、ヨーロッパどこに行っても、子どもたちの表情は日本の子どもたちのそれより豊かなのだと堂本さんは言います。言葉の通じないアフリカの子どもたちの豊かな表情こそ、本当の豊かさを教えてくれています。

「一見豊かに見える日本、何が豊かなのかなって思います。おいしい物を食べて人工的な環境の中で働くことと、人間関係が豊かで人間的に豊かであることとどちらが人間として幸福なのかと」
こうして外国に行って感じたことや身のまわりで感じた問題意識を堂本さんは、TVというメディアで表現してきました。

「ジヤーナリズムは、常に発見であり挑戦なのです。反体制的な場に身を置いて物事を見つめてゆくことが私の仕事なんです」
ある意味では、ジャーナリストであることは自分との闘いでもあります。

「政治、社会、文化を仮想敵と見なし、自分の限界に対し戦っているんです」
女であることが仕事上マイナスになったこともありません。

「対仕事で男である、女であるという部分でくくられるということはありません。だからこそ与えられた場を女として生かしていこうとは思ってますが」
その与えられた場を、子どもを産む側の性、言い換えれぱ生きる、生活をするということに敏感な女性という立場で生かしているのです。

合理性、論理性をつきつめてきた男性型社会に対し、感性や生活に根ざした女の側からのアンチテーゼを出しているわけです。
「子どもを産む側の性であることは、人間らしくあることにも敏感であることですから」