東京女子大学文理学部 第38回VERA祭パンフレット
先輩方に、学ぶ 堂本暁子先生
1991年7月


今回のインタビューは、OGである先生御自身の学生時代について、そしてさらに今年のVERA祭のテーマである「そして、私を識る……」に関連して「私らしさ」というものに焦点を絞ってお話を伺いました。

プロフイール1952年東京女子大学文学部卒。1959年からTBSでキャスター、カメラマン、記者、ディレクター歴任。1980年のベビーホテルキャンペーンで日本新聞協会賞受賞。そして1989年参議院選挙に立候補、見事初当選。現在幅広く活動中。

私は個人的には東京女子大学がすごく好きな人なんですよね。学生時代は本当に謳歌したとおもってるんです。山岳部に所属していたんですが、山登りしながらでも、勉強しながらでも本当に純粋に「凡そ真なること」に向かって、みんなで全力投球していた、そういう意味では、中途半端でない4年間でした。一瞬一瞬が精一杯でした。

その四年間の学生昨代が、ずっとそれ以後の私の基礎になったなあ、と思うんです。

東女は私の可能性を引き出してくれた学校だとおもうのね

女子大で一番良かった事は、常に女性がイニシアチブをとれたって事ですね。今は世の中自体が変わってきて、女性だけで何か、ということはなくなってきましたね。後輩を見ていてそう思いましたが、それはそれで楽しいことかもしれないけれど、私達はそれでも頑固に女性だけで何かやる、ということをたのしんだと思います。

東女の持っている伝統みたいなもの--それは何かというとやはリ、純粋にものにつきすすんでいくという、そういう朗らかさみたいなものだと思います。TBSに入って全く男の人の中で仕事を始めた時、私の基礎となったのがやはり女子大の時に、本当に私がイニシアチブをとって自分の足で何かやる、ということだったと思うのね。

だからそういう意味でいうと女子大は学校という場として私の可能牲を、ギリギリのところまでひらいてくれたと思うんですよね。

周りによって自分が作られていくってことがどんなに多いか、ということですね

TBSの仕事を始めたのは、自分から希望したのではなく学校の先生が私を推薦して下さったからなんです。1年やってみておもしろくなかったらもうTVなんてやめよう、と思っていたのだけれど、やってみたらおもしろくて結局30年も続けちゃって……。

やはり持続っていうのはすごい事で、30年続けると30年の歳月の力仕事ってあるんですね。その中で学生時代とは違った自分の可能性を見つけ、また育まれていく自分自身というものを発見しました。自分というものがあってそのうえで何かやる、というのではなく、周りによって自分が作られていくってことがどんなに多いか、ということですね。

自分の個性というものは変わることはないのですが、その個性を磨いたり、光らせたり、芳しく出す、ということは本人がやっているつもりで実はやっていないんですね。

本当に自分の持っている器っていうのは分からないのね意外に人の目っていうのは正確なんです。TBSには先生の推薦で入りましたが、報道の仕事がおもしろくて、自分では思いもよらないところまでとことんやれた、と思うんです。

一生やっぱリジャーナリストでいたいと思っていました。でもこれまた人っていうのは分からないもので、自分の意思で進んでいく人もいるし、私みたいに自分の意思とは反対に突然いってしまう人もいるんですよ。参議院議員になる時もそうでしたね。

土井たか子さんという方に誘われて、今度は私の持っている別の可能性がある、ということを発見した訳です。記者としては三十年もやっていたから、可能性の、ギリギリまで開発されたという感覚を持っていたんですね。ところがここへきたら全然違うの。人間ていうのは不思議なものでね、違う引き出しっていうのが、またあるんですね。

「可能性」が十分引き出されていること、それが“私らしさ”だと思うのよね私はたまたま、ジャーナリズムと政治ということだったんですけれども、たとえばそれが子育てであればその子供なりに母親の可能性を引き出す訳だし、何か他の仕事でも、その仕事がその人の可能性を引き出したり、いろんな“可能牲の引き出され方”があると思うんです。

その自分の持っているものが糸みたいに引き出されてきた時は快感だと思うの。そのための力仕事はいっばいあるんだけれど、自分の持っているものが引き出される方向を見ていると自然に自分もそっちの方向に向いていくんですよね。

これまでの経験からいうと、可能性と言う面からいえば、どこかである時期、トータルでみた場合に、その人の可能性が十分引き出されていること、それがその人の“私らしさ”だと思うのね。

最後に東女生であったことが卒業後、御自身にどんな影響を与えたとおもいますか?“自分のプライド”ね。