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女性の健康のために闘う改革者 堂本暁子
1996年9月


日本の参議院議員である堂本暁子は、日本の女性に影響を及ぼす「性と生殖に関する健康」の問題提議に身を投じた。

日本の国会の上院にあたる参議院の事務所は、国政の舵取りの中心地である東京の永田町の一角にある。近くには衆議院や首相官邸、さらには強力な権力を掌握している官庁街がある。通りにはひっきりなしにトヨタのリムジンが行き交う。参議院の建物のロビーでは、制服を来た女性職員がガラスの向こう側から来訪者を吟味する。それ以外は全員が男性で、ありきたりなダークスーツを着込んだ官僚やビジネスマン達。

堂本暁子は、この光景では異質な存在である。もちろん、彼女は参議院の椅子を6年間保持してきた。さらに、最初は日本社会党の、次には新党さきがけの一員として、両党とも連立政権を担ってきたこともあり、彼女は大きな力をふるってきた。しかし、日本の政治の最高層に居る数少ない女性の一人として、また特に、女性の権利向上の不断の運動家として、彼女は永田町の男性社会の中では特異な人物である。

この優美な女性はくじけたりはしない。堂本暁子が1989年に参議院議員になった時、彼女は女性問題と環境問題について長い闘いに取り組んでいた。「女性問題に関する政策を変えようという意志が、政界入りの大きな要因でした」と彼女は語る。

既に1980年代に「女性の性に関する健康と権利」のグループを創設した一員として、女性の性と健康に関する権利拡大を推進することが簡単な仕事ではないことは、彼女は十分に承知していた。「現在でも日本の政界に女性は少ない」と堂本は説明する。「女性の政治家無くして、或いは少なくとも、生殖に関する健康と権利の概念を持っている政治家の存在無くしては、女性に関わる政策の向上はあり得ません」

テレビのレポーターやディレクターとしての30年間の経験から学んだ頑固なまでの不屈さで、彼女はこの6年間、自分の目標を追求してきた。彼女の人間的な暖かさにより、全員が女性で構成されたスタッフの非常な献身を勝ち取ってきたが、根本では、礼儀正しい態度こそが信頼を得る大きな力である。女性の性と生殖に関する健康の権利についての堂本暁子の戦いは、最初は政治の片隅で始められたが、今では日本国政府の最高レベルで大きな影響を与えている。

国政の道具としての女性

欧米から見た日本は、裕福というイメージに支配されている。懸命に働いて貯金し、ゴルフや海外旅行を楽しむために法外な金を払い、安定した同質の文化に恩恵を受けている国として見られている。しかし日本の「経済の奇跡」は、均衡ある発展をもたらさなかった。日本の女性は限られた職業機会しか与えられず、厳しく制約された社会的役割に従い、自分自身の健康の決定に関して何も言ってこなかった。現実問題として、日本の女性は学校では性教育をほとんど受けないし、生殖の健康については限られた助言しか得ていない。それどころか、ピルを使うことさえ簡単ではない。1990年代半ばの日本では、経口避妊薬ピルはまだ自由に入手できない。

現在の不平等の根底には文化的、歴史的要因が横たわる。今でも日本社会の多くを形づくる儒教の伝統的基本教義の1つが男尊女卑、すなわち女性は男性を尊敬し敬意を払わなくてはならない、という考えである。「特に性と生殖の分野では、男性が感情的にも肉体的にも主導権を持っています」と堂本は言う。

この伝統は、第二次世界大戦の後、経済成長に重点を置いてきた過去50年間に強化されてきた。「日本は戦後、どん底を経験しました」堂本は当時の状況をよりよく表現するために、流ちょうな英語から日本語に切り替えて説明する。「私たちは国を再建するために大きな努力をしなければならないとうことで、男性管理の社会がこの最優先目標と共に進んでいきました」

「女性が自分の性の健康についてどう感じるかは考慮されませんでした」と彼女は続ける。「そもそも個人の成長発展なんて考慮されませんでした。個人的な選択という段階では、日本は欧米よりも他のアジア諸国と似ています」

この考えは現在でも続いている。堂本によると、日本では「性の健康と権利は隠れた問題です。GNPの状況を見るのは簡単ですが、生殖の健康を数値化したり、女性に選択の保証を与えることは不可能です」

実際、20世紀の大半を通じて、性と生殖に関する健康は日本の国政では軽視されてきた。妊娠中絶は明治時代(1868〜1912年)には禁止されていた。また、戦時の出生率を向上させようとする軍事政権の方針に従い、悪名高いナチスドイツの法律をモデルにした1940年の優生法が導入されて、避妊はさらに規制された。戦後になって、優先事項は逆転した。1948年には、経済復興を優先して人口増加を抑制するために、優生保護法が公布された。

日本は中絶を合法化した最初の国となり、1950年代初期に全国的な家族計画プログラムを打ち出した。1970年代までには、政府の人口抑制政策が成功しすぎたことが明白となった。経済成長は達成されたが、女性の合計特殊出生率が2人を下回るまで低下したことが、労働力不足と人口高齢化への懸念を引き起こした。危機感が高まったのは1991年であり、女性の出生率は1.52人にまで低下した。

これに対応して、政府は優生保護法を改正する様々な政策を打ち出し、女性がもっと赤ちゃんを産むように推奨した。女性はこれに反発し、堂本が理事を務める日本家族計画連盟のようなグループの支援を受けて、既存の避妊手段の権利を守った。

選択肢の拡大は、全く別の問題である。他の先進工業国と比べて、日本では避妊の選択肢は多くない。コンドームが最も一般的な避妊方法であり、避妊市場の80%を占める。避妊リング等の子宮内避妊具も入手可能だが、先進国としては中絶に頼る率が非常に高い。

公的な資料を見ただけでも、日本女性の3人に1人が中絶を経験している。中絶率の一貫した低下にも関わらず、古いパターンの避妊方法は根強く残っている。「5人も6人も中絶する女性もいます」と堂本は言う。彼女の声は母性感情に突き動かされているかのようだ。「そんなことは精神的にも肉体的にも健康に良くありません。変えていかなければなりません」

変えていくためには、2つの大きな障害が立ちはだかっている。「中絶率が高い理由の1つは、ピルが合法化されていないことです」と堂本は主張する。「また、若い女性、特に10代の子に対する十分なカウンセリングがありません」

生殖の健康を目指して

外見で真実を包み隠す日本の典型的な事例として、役所は、日本でも避妊ピルは利用可能だと主張する。確かにそうだが、しかしそれは、高用量の第一世代ピルだけである。ほとんどの日本女性にとっては、ピルは実用的な避妊手段ではないというのが現実である。

こんな状況は馬鹿げていると堂本は訴える。「日本女性の間では、高用量ピルは副作用のせいで女性の健康に良くないと信じられています」と彼女は言う。「現在でも、医者は高用量ピルしか処方できないため、一般的にはなっていません」このため、処方箋には女性個々人の生理学的な差異を考慮させることはできない。

本来なら、低用量ピルは既に合法化されていなければならない。4000人の女性集団を対象とした試験に成功した後、厚生省は1991年に認可しようとしていた。そこに1.52ショックが襲ったため、認可は延期されたのである。

延期の公式理由には、当然ながら出生率の低下は触れられていない。代わりに、厚生省は、それまではエイズの脅威を一貫して軽視してきたくせに、ピルの合法化がコンドーム使用の低下を促し、それによってエイズの危険性が増すと主張した。

それにも関わらず、堂本はピルの合法化が近いと期待している。「全ての試験は既に終了し、1.52ショックも消え去りました。女性運動の継続した圧力により、たぶん1996年には彼らも低用量ピルを認可すると思います」

国際的な圧力も厚生省を動かすうえで重要だった。1994年にカイロで開催された国際人口・開発会議や、1995年9月に北京で開催された女性世界会議において、堂本は日本の立法者や官僚を女性の生殖の健康に関する国際的な考え方に触れさせた。堂本は、自分の肘掛け椅子に戻り、カイロ会議に参加した厚生省の7人の代表団をいかにして納得させたかを満足げに思い起こした。日本の官僚が、国際的な文脈において生殖の健康という概念を初めて理解した、と彼女は感じている。

「カイロ会議の後、官僚の間で変化と柔軟性という点で注目すべき動きが出てきました」と彼女は興奮気味に話す。「彼らは、カイロ会議で採択された行動計画が厚生省のガイドラインになると約束しました。これは、彼らが生殖の健康という視点にしっかりと立脚しなければならず、また私たちは彼らが行動計画を実行するように強いることができる、ということを意味します」

彼女が1週間参加した北京会議がさらに進展させた。「北京会議は大きな前進ではありませんでしたが、少なくとも後退しなかったことは評価できます」と彼女は総括する。会議において日本が率先したのは、政府開発援助を基盤整備からソフト面へ移していき、人口抑制、エイズ防止や女性の地位向上等の分野で増額していくことについて、理解を求めていくことであった。

しかしながら、行動のための北京綱領が決着すれば、女性グループやNGOは日本女性のための「2000年へのビジョン」を起草するために政府と協同していくだろう。中でも堂本は、明治時代の中絶法と第二次世界大戦中の優生法がいまだに名残をとどめている法体系の改正を目指している。

NGOの役割

堂本暁子は、女性の健康に関する政策変更における彼女自身の役割については控え目であり、それよりむしろ女性NGOの影響力の増大を強調する。「私は現在、日本ではNGOが最も重要な役割を担っていると思います」と彼女は敬意を払う。「1980年代までは、生殖の健康に焦点を合わせたグループは全く無く、私たちはとても小さな基盤からスタートしました。今ではどんどん拡がり、北から南まで全国の女性NGOをネットワークしています」

「たぶん最も前向きな進展は、NGOと女性国会議員が協同して活動していることです。国会議員が関わっているからこそ官僚達も動いています。彼ら自身は、いまだにNGOがとても重要な存在とは見なしていませんから」

官僚達の態度を見ても分かるように、堂本の影響力が最も大きいのは立法者としてである。彼女は政府の一角を占めており、首相や政権党の党首達と毎週ミーティングを持っている。そして、新党さきがけの唯一の女性国会議員として、彼女は党の生殖に関する健康の政策そのものである、と冗談めかして言う。日本社会党に在籍していた時と同じく、彼女は党の政策には満足していない。

「私は政府の政策に影響を与えようと、一生懸命に努力しているんですよ」と彼女は皮肉っぽく言う。50人程いる女性国会議員と連携することにより、女性の健康問題の分野で共同して主導性を発揮することができている。「今の段階では、政府の声明に言葉を盛り込ませるための議論が中心です」と彼女は活動を説明する。

彼女は最近の事例として、女性リーダーが村山首相に、北京会議での日本の公式スピーチの中に、女性の健康と生殖の権利に関する記述を盛り込んでもらうよう働きかけ、成功した事例を挙げる。

「これは私たちにとって大変重要なことです。このように日本がこの問題を重要視していることを国際的に表明すれば、責任が出てきます。私たちは政策立案者の所へ行って「北京では世界中に向かって、これは日本にとって優先する課題であると表明したのだから、きちんとフォローしていかなくてはなりませんよ」と言うことができます。この戦略は、公での発言を守らないとメンツを失ってしまう危険性のある日本においては、二重に効果的である。

堂本はまた、もっと広範な性教育とカウンセリングの要求も訴えてきたが、その結果も出始めている。「この分野にもまた、カイロで採択した行動計画の一部として、少額の予算がついています。まだほんのスタート段階ですが、予算が続く限り行政としては、それで何をするか考えなければなりません」

「少しずつ」というのが堂本のモットーである。彼女によれば、1989年に政界に入って以来、その信念は変わっておらず、さらに、北京女性会議において日本や他のアジア諸国の派遣団の中で見られた、性と生殖に関する健康の権利に対する認識の高まりによって、勇気づけられている。

しかし、全体として日本を見たときは、彼女も現実的になってしまう。集団の調和を強調する文化と、性と生殖に関する健康の分野における情報の欠落とに慣らされているため、日本女性には抵抗するという伝統が欠けている。

堂本の期待は「若い世代は、性と生殖の権利について幅広い概念を把握し、女性の立場をより自然に理解できる」ことだ。これを達成するために、情報への強力なアクセス力と、より広範な教育が必要である。それは既に始まっているのではないだろうか。現在進行している経済不振と政治体制の変化が、戦後経済モデルの広範な再検討を促している兆しが伺える。ピルを合法化させ、より広範な性的健康のカウンセリングを導入するという堂本の目標は差し迫っているように見える。楽観的すぎるだろうか。

「私は楽観的にはなれません」と彼女は答える。「いくつかの変化は起こっています。しかし、官僚と男性にリードされている社会構造を変えるのは簡単ではありません。例えば、多くのヨーロッパ諸国で可能な事と、この国で可能な事とでは、いまだに大きな違いがあります。他の国では大きく育った樹木が、男性にも女性にも、さらには子供達のためにもなる果実を実らせている時に、この国では小さな芽が出たに過ぎません」

取材が終わり、堂本はくつろいだ。請願者は彼女に面会しようと待っており、スタッフ達は説明資料とお茶を持って忙しそうであり、また編集者はチェックしてもらう書類を持って待っている。その真ん中で、政治家でありまた運動家である堂本暁子は、一瞬疲れているように見えた。しかし彼女はすぐに明るさを取り戻し、我々に別れの挨拶をした後、その日の次の仕事にとりかかった。太陽は永田町の上を傾きかけているが、まだまだやる事はたくさんあるーー「少しずつ」