政治と経済
女性政治家登場党インタビュー
市民の側に軸を置いて永田町の変革を目指す日々
新党さきがけ 参議院議員 堂本暁子さん
1998年4月
本誌/竹永昌代


TBSのディレクターとして様々な問題を追いかけ、世界を飛び回る生活をしていた堂本さん。

その堂本さんに大きな転機が訪れた。旧社会党党首だった土井たか子氏から“参講院選・出馬”の熱心なラブ・コールが続いたのである。要請されたのが男性ではなく、土井氏だったからこそ、政治家に転身する決意ができた、と当時を振り返る堂本さん。

今回は環境問題や女性政策に国際的な活躍をする新党さきがけ講員団座長・堂本暁子さんにお話をうかがいました。

環境間題、女性問題など長年、取り組んできた市民運動の資料であふれかえる議員室には、ひっきりなしに客が訪れる。20代から30代の若い女性秘書たちが、その対応に生き生きと立ち働く姿が印象的だ。

その日、堂本の議員室を訪れたのは3人連れの運輸省の役人である。現在、堂本は、与党3党で結成された『児童買春問題等ブロジェクトチーム』で児童買春と児童ポルノを防止する議員立法作りに追われている。最近、日本人の中年男性による東南アジアでの児童買春が急増している。

そのため、堂本らは、児童買春防止法の条文の中に旅行会社による児童買春の斡旋を禁止する一文を盛り込んだ。それに対して旅行業界が猛反発をしてきたのである。そこで監督官庁である運輸省としては旅行業界が罰則を受けるのを防ぐため、条文の中から“旅行会社”という一文を削って欲しい、と陳情に訪れたのだ。

「そのような実態は絶対にありません」と言い張る官僚グループ。堂本は、TBSのディレクター時代にフィリピンやタイにドキュメンタリー番組の取材に出かけ、児童買春の実態をつぶさに見てきた。

「自信がおありになるようですけれど、絶対にないと言えますか?自分の業界をお守りになるだけではなく、まず実態をお調べください」論すように堂本は語る。

省益を守ろうと、必死な官僚グループは、不満げな表情で議員室を退散する。「銀行の大蔵省の金融検査官への接待疑惑にしても大蔵省が銀行を守りすぎてああなった訳ですよ。何か事があってからでは遅いんですよ」。念を押すように堂本はたたみかける。

土井氏の説得で参院選に初出馬

30年間、TBSのディレクターを務めていた堂本は、自分が政治の世界に首を突っ込むことになろうとは夢にも思っていなかったという。

しかし、参議院選の半年前に土井たか子氏から、出馬の要請があった。直接会っては断り、それでもダメなら電話やFAXを入れて断り続けた。「選挙直前の6月に入っても、それでも『まだ待ってるのよ』と土井さんが、おっしゃった時に、やはり同性としては、ここはやらなければと思ったんです」

旧社会党の他にも多くの党から3年ごとに出馬の要請は受けていた。しかし、土井の要請だったからこそふんぎりがついたのだと堂本はいう。もしも、要請されたのが男性だったなら出馬はなかった、と堂本は語る。

その後、堂本がさきがけ議員団座長となり、与党首脳会議の風景も一変した。これまでの党首会談というとポマードをてからせた男たちの寄集りというのが定番だったが、今は橋龍が左右に座する2人の“姉御”に、はさまれて苦笑いを浮かべる、なんともユーモラスな構図が見受けられる様になった。

永田町では最近、土井たか子社民党党首と堂本のことを頭文字から“D-D砲”と呼ぶ人が増えたという。“D-D”とは軍事の世界では駆逐艦のことを指す。“デストロイヤー・デストロイヤー”の略称で、その名の通り破壊力は抜群だ。

最近、それぞれの得意分野でD-D砲が火を吹き、橋本龍太郎首相もたじたじだという。

佐藤孝行氏入閣問題では土井氏の呼び掛けで共同して更迭を要求。続いて環境に詳しい堂本の主導で政府による地球温暖化ガス削減目標の撤回を求めた。

ベルリンで見た東西冷戦の終結

ベルリンの壁が崩壊する前の1988年、堂本は若いカップルが東から西へ川を泳いで渡った直後に、銃を発砲された現場を訪れた。幸い弾ははずれたが、ピーンと凍ったような空気を膚で感じた。

その翌年、堂本は再び同じ場所に立った。が、張り詰めた空気はそこにはなく東西の間にはジーンズ姿でロックやクラシックに酔いしれる若者たちが溢れていた。堂本も若者たちに混じり、ハンマーを持った右手を振り上げ、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁を打ち崩した。壁を打ち砕くその確かな手ごたえと共に、新しい時代の幕開けを確信していた。

男と女、若者と中高年、障害者と健常者。様々な個牲が共生する“多様性”の時代の到来だと感じた。“多様性の時代”を迎えた1989年。奇くしも同じ年に堂本はTBSを辞め、政治家としてのスタートをきっている。

TBS時代には、ベビーホテルを扱ったドキュメンタリーを手がけ、その番組をきっかけに児童福祉法が改正された。さらに、『地球サミット』に向け環境問題に取り組むほか『国際人口開発会議』『社会開発サミット』『北京女性会議』など様々な国際会議に参加した。

「女性の人権と性」に取り組む市民運動を共に行なってきた田中喜美子さんは「どうすれば人間も地球も幸福になれるのか、という基本的な思想を持っている人だ」と深い信頼を寄せる。

そんな堂本も当選後、しばらくは議員として自分の活動がどうあるべきか、模索の時期が続いたという。

しかし前出の田中氏は「環境問題と出会ってから水を得た魚の様になられて、人間としてのスケールが大きくなった」と堂本の成長ぶりを述懐する。あくまで市民の側に軸足を置きつつも、政治家として現実を直視していく、そんな独自のスタイルを体得したのだろう。

堂本を慕う若手の一人で現在、民主党・政策調査会長を務める、枝野幸男(33)は堂本をこう語る。「さきがけは、非常に理屈っぽい集団。

その中で堂本さんは理屈と現実のバランスをうまく取る役割を果たしていらっしやる」永田町の理屈で動くのではなく、永田町を外から動かさなくてはいけない、と思っている市民運動の側に“当事者”の立場として加わっているところが堂本の強みだとも言う。

「さきがけでは“お母さん”的存在です」とは、さきがけ政策調査会長の水野誠一氏。厳しさを持つ反面、どっしりとした包容力と暖かさを持ち、その人柄を若い議員たちは慕っている。

今まで、政治家としての力量は、政治家同士の水面下の根回しやかけひきがうまいことなど、いわゆる“寝業”的な部分がうまいことで判断されていた。

しかし「今まで、そればかりやっていたが故に、政治家に対する国民や社会からの支持が簿れちゃってる訳ですよ」今、議員にとって一番大事なのは、国民とどれだけ同じ目線を持ち、同じ言葉で説得していける人であるかということではないかと水野は語る。

「堂本さんは、今でも、いろいろ悩んでおられますよ。政治の世界というものと、自分たちの考えるものとのギャップというものはいつもあるからね。でもその悩みをずっと持ち続けておられることが堂本さんの魅力だと思う」と水野氏。

「党内よりも世間の皆さんの方が国内的にも国際的にも堂本暁子を評価し、支持している」という声もあるように、その軸足は永田町にではなくしっかりと“市民”の側に置かれている。

「さきがけのメンバーは今、5人です。少ない人数の力は小さいかもしれない。でも、それがカミソリのような切れ味を持てたらとてもいいなと思っているんです」と堂本。

依然、さきがけにとっては厳しい状況が続く中、堂本がどんな“鋭い切れ味”を見せてくれるのか見守ってみたい。

堂本暁子略歴
〈経歴〉
1932年7月31日生まれ
東京女子大学文学部卒業
TBS(東京放送)ディレクターとして報道番組の制作に携わる
1980年、「ベビーホテルキャンペーン」が児童福祉法改正のきっかけとなり、日本新聞協会賞などを受賞
1989年、参議院比例区に立候補、初当選
予算・外務・大蔵・環境特別委員会等でODA、環境基本法などの審議にあたる。
1992年、ブラジルの「地球サミット」に参加
1993年、GLOBE(地球環境国際議員連盟)の日本総裁に就任
1994年、IUCN(国際自然保護連合)の選任理事に選ばれ、97年から北東アジア地域理事、副会長「国際人口・開発会議」に日本政府代表として参加
同12月、新党さきがけに入党
1995年7月、参議院比例区に立候補、再選
1996年9月、北京の「第4回世界女性会議」に参加

〈主な役職〉
与党政策調整会議委員、与党NPOプロジェクト新党さきがけ座長、参議院新党さきがけ院内幹事などを経て現在、新党さきがけ議員団座長、参議院労働・社会政策委員会委員

〈著書〉
「立ち上がる地球市民」(河出書房新社)「生物多様性」(岩波書店)など