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エスキモー・ショック
1982年11月号
堂本暁子


エスキモーはよく笑う。はじめてセスナ機でエスキモー村に下り立った時、私をとりまいた男も女も、大人も子供も、みんな顔中で笑っていた。私は思わずたじろいだが、それがエスキモーの挨拶だと後で知った。北極海のタック島のカナダ・エスキモーを取材してから20年近くたつ。しかし、今も、白一色の世界に住むエスキモーを忘れることができない。子供たちは午前2時でも、3時でも、外で遊んでいた。白夜なので、夜中でも外は明るい。夜は寝るものと決め込んでいるのは、地球の上でも昼と夜の区別がはっきりしている緯度に住む人間の習慣なのだ。

翌日、エスキモーの一家を訪ねた。彼等は快く迎え入れたが、それ以上、もてなしもしない。文明社会の社交に慣れている人間にとっては何か身の置きどころのない感じであった。しかし、食事は、家族と同じものを食べさせてくれた。ブリザードが急に吹き荒れると、狩りに出ている男たちは、一番、近い家に避難し、何日でも、嵐がやむまで、その家に住むという。そこには、見栄もなければ遠慮もない。下手な遠慮は死につながる。厳しい自然のなかでの人と人との関係があった。他人も家族と同じに扱い、食糧が尽きれば、一緒に餓死する。表面的、形式的な社交辞令とは無縁の世界である。

その意味で、私はこの夏、中国東北部遼陽市で中国孤児の取材をしていて、ほれぼれするほどあっばれな女性に会った。王素華さんという中国人で、私が訪ねた中国孤児、王素琴さんの姉である。王素琴さんは終戦の翌年、1歳の時に12歳年上の素華さんがいる養父母の家に預けられた。ところが翌年、彼女は小児マヒにかかる。戦後の混乱期で、ほとんどの医師は患者を診察しなかった。そのなかで王素華さんは、「この子は日本人から頂かった。何としてもなおしたい」と鍼灸の医師にたのみ込み、朝、タ、日に2回、王素琴さんをおんぶして治療に通う。まだ反日感情の強い時であったろうに、と私は話を聞きながら胸のつまる思いだった。

努力のかいあって半年後に王素琴さんの病気はなおる。しかし、左足はマヒしたままだった。それからの王素華さんは見事な肝っ玉姉さんぶりを発揮する。15歳から紡績工場で働き、家計を助け、妹の欲しがるものは何でも買い与えた。冬になるとソリに乗せて、学校の送り迎えをし、万一、友達にいじめられれば、自分が出ていってかばった。そして、中国の伝統的な鍼灸の技術をもつ老医師のところへ素琴さんを弟子入りさせ、鍼医者として一人前に生活できるようにしたのも素華姉さんだった。反日感情の渦巻くなかで、王素華さんは時代にも世相にも流されず、日本人の妹、王素琴さんを実の妹のように大事に育てた。しかも、彼女は、ごく当たり前のことをしただけといった様子で、たんたんとそれを語った。

話を間きながら、「日本人として、有り難う、といわずにはいられません」と私は思わずいった。すると彼女は、「実は私も孤児なのです。両親の顔も知りません。ですから王素琴の気持ちがよくわかりました」と、つぶやいた。その時だけ、真っ黒に日焼けした顔に大粒の涙が一筋流れた。次の瞬間、彼女は何もなかったように職場に戻っていった。その後ろ姿にはエスキモーに感じた人間の素朴なたくましさと美しさがあった。それは自分の足でしっかりと立ちながら、なお、人の立場を理解し、全く自然に、しかも力一杯、その人と関わり合える人間の姿であった。
最近、王素琴さんは、日本の肉親と34年ぶりに再会した。「やっと役目を果たしたような気がします」大きな目をくりくりさせて王素華さんはいった。その言葉には、国や血を越えて、人と人との真摯なつき合いをもった肝っ玉姉さんのさわやかさがあった。彼女の中国人の肉親の行方は今もわかっていない。