新訂中学国語3(教育出版)
かめない子が増えている
1987年
堂本暁子


東京、多摩地区の保育園で、3歳児の取材をしていた時のことである。ほとんどの子どもが昼の給食を食べ終わって遊んでいるのに、3人だけはまだ食卓に向かっている。深めの白いボールに入ったハヤシライスと小皿の野菜サラダはあまり減っていない。「この子どもたちは、かむのが下手でね…。」もてあましたように、保母さんは言った。

見ていると、やわらかいものだけを食べて、固いものは口から出してしまったり、かんでもかんでもかみ切れず、野菜の繊維や肉を口いっぱいにためていたり、逆に、かまずに食べたものをのみ込んでしまったりと、かたちはまちまちだが、要するに、三歳になっても食べ物を咀嚼できない子どもたちであるらしい。午後一時近くなると、遊んでいる子どもたちは、パジャマに着替えて、昼寝の準備を始めた。食事中の子どもたちも、きりをつける時間である。「この子たちは、いつまでも食べているので、遊ぶ時間がなくなってしまうんです。早く食べて遊びたい、という意欲をもってくれるといいんですが…。」

なにげない保母さんの言葉が気になった。咀嚼力の弱い子どもは、他の行動や意欲の点にも問題があるらしい。きくと、こうした子どもたちが目だち始めたのは、ここ4、5年のことだという。目に見えないところで、何か深刻な事態が進行しているのではないかとの危惧を、私は抱いたのだった。それまで私は、ものをかむということは、だれもが自然にできる、あたりまえのことだと思っていた。ところが、小児科の医師にきいてみると必ずしもそうではないらしい。お母さんのお乳を吸う能力は生まれつきあっても、かむ能力は、トレーニングによって習得するのだという。それも生後4ヶ月ごろから、母乳を飲むという赤ちゃんの努力の中で次のステップである咀嚼のトレーニングが始まり、咀嚼力の基礎が固まる時期は非常に早く、1歳から1歳半ごろまでの時期だという。お母さんの与える手作りの離乳食によって、やわらかいものから固いものへ、小さいものから大きいものへと、自然にこのトレーニングが行われていくのである。したがって、そういうトレーニングの時期をもてないで過ごしてしまうと、かめない子どもが育っても不思議ではないというのだ。

もしも、全国的にそういう「かめない子ども」が増えているとすれば、ただごとではない。社会的にもゆゆしい問題である。実態はどうなのだろうか、知りたいと思った。そこで、全国の保育園5,000か所を対象に咀嚼力の調査を実施した。その結果、2・3歳児の1.7パーセントが、「固いものがかめない子ども」であることがわかった。58人に1人の割合である。

また、「食べ物をかんでものみ込むのが下手な子ども」は、4.3%、つまり23.3人に1人と、更に多い。予想以上の数である。しかも、都市・農村の別なく、全国いたるところに咀嚼力の弱い子どもたちがいた。この事実に、改めて事の重大さを感じずにはいられなかった。

そもそも人間は、生まれた時から上あごと下あごがかみ合っているわけではない。生まれた時には、下あごが多少後ろに引っ込んでいる。だからどの赤ちゃんも丸顔である。あごの張った赤ちゃんなど、いるものではない。その未発達な下あごが、1歳くらいまでの間に上あごとかみ合わさるところまで発達し、前進して、歯の生える土台ができる。そして、上下の、白くかわいい前歯がかみ合った時、脳が刺激を受けて、位置を記憶し、活発なはたらきを開始する。唾液の分泌、満腹感など、消化のリズムは咀嚼と連動して起きる。

下あごの発達をうながす最初のきっかけは、赤ちゃんが母乳を飲む時に、お乳を吸うだけでなく、下あごで力いっぱいにお母さんのおっぱいを押す動きだという。

よく見ていると、お乳を絞り出すために、赤ちゃんは下あごを上下に激しく動かしているのがわかる。ところが、ある時期から、ミルクとほ乳瓶を使うお母さんたちが増えてきた。ほ乳瓶は、吸うだけで勢いよくミルクが出る。母親の乳首がもっている微妙な機能がないのは当然である。したがってこれでは、下あごを積極的に発達させることができないのだ。

生後4ヶ月ごろになると、あごの発達と相まって、前後にしか動かなかった舌が上下に動き始め、くちびるも敏感さを増す。このころ初めて口にするのが、スープやおもゆといった離乳食。それは、赤ちゃんにとって、新しい味や舌触りとの出会いであり、未知の領域へのチャレンジである。豆腐の滑らかさ、じゃがいものほっかりした感触、蕪のまろやかな味と香り、何であれ初めて食べる物への興味は、好奇心の出発点である。

かみ方が上達するにつれて、食べられる物の種類が増え、お母さんが作る料理の方法も、煮物から焼き物、揚げ物と、変化に富んでくる。おいしいと、赤ちゃんは目を輝かせ、いかにもうれしそうに笑う。1つ1つの果物や野菜、魚や肉の味を、そして”おふくろの味”を覚え、赤ちゃんは食べる楽しさ、喜びを知る。

6・7ヶ月になると、かみ、飲み、呼吸する運動が連動し、リズムをもつ。それが、言葉を話し始める基礎となり、脳の発達をうながす。こうした口の機能の発達は、昔から、日常の育児の中でごく自然に行われてきた。どうもそれが、最近、大きくくるい始めているようなのだ。経済の高度成長に伴って、食品産業も盛んになり、栄養価が高く、手軽な半調理の食品が、全国の津々浦々にまで出回っている。それぞれの地方に伝わる昔からの料理をしのいで、冷凍やインスタントの食品が、家庭の食卓にのぼるようになった。

赤ちゃんの食事とて例外ではない。手軽なベビーフードが大量に売られている。しかし缶詰のベビーフードは、栄養のバランスへの配慮はあっても、口の機能的な発達をうながすようにはつくられていない。

そもそも縄文時代の昔から、人間は、食べ物を手に入れるために働き続けてきた。大人も子どもも常に飢餓感を抱いていた、といっても言いすぎではあるまい。日本の歴史の中で、今日ほど、食べ物が豊富な時代はかつてなかったであろう。そのことを裏づけるように、お母さんを対象に行った調査によると、「食欲のない子ども」が4人に1人の割合でいた。食べる意欲がない子どもたちは、おのずと咀嚼力も落ちるという。

ところで、こうした現象は、なにも人間の世界にだけ生じているのではない。同じような状況が、動物園で飼育されている動物たちにも現れている。自ら食べ物を探し求めなければならない野生の動物と違って、人間のように虫歯にもなれば、歯槽膿漏にもなる。咀嚼力は極度に低いそうである。

今、私たちは、さまざまな加工食品の洪水の中で生きている。歯ごたえのあるおせんべいよりスナック類、ステーキよりハンバーグと、”やわらか指向”の時代である。ヨーグルト・プリン・スパゲッティと、かまなくてもよい食品に人気が集まり、若者たちははばかることなく「かむのがめんどくさい。」と言う。よくかんで味わうより、あっさりのみ込むことを好む。咀嚼力の弱い子どもが大人になると、かまずにのみ込む食べ方になるようだ。鵜のみである。

かむ能力を欠くということは、その子の性格形成や、言語・精神の発達にも大きな影響をもたらすことが十分予想される。考えてみると、私たちは生活のさまざまな側面で、咀嚼するという能力を失いつつあるのではないだろうか。情報を膨大にのみ込んでも咀嚼することはないコンピュータ文化。人が定めた価値を鵜のみにするブランド指向と、世をあげて”鵜のみ文化”の時代である。

本とて例外ではない。書店のコーナーでは、食べ物が同様自分でかまなくてもいい”やわらか指向”が目につく。「お金をもうける方法」から「恋人を探す方法」、あげくは「親子ゲンカをする方法」と、加工食品並みに、ハーフメードのアイディアものも、よりどり見どり。インスタントラーメンや持ち帰り弁当と同じ手軽さが受けている。

近代文明の檻の中で、人間は、動物本来の能力を、そして、長い間かかってつちかってきた数々の大事な機能を、急速に失いつつあるのではないだろうか。かむことさえできない子どもたちが増えている現実を、単にそれだけのこととして見すごすわけにはゆかない。それは、私たち人類にとって、きわめて根の深い、大きな問題であるように思えてならない。