国民から見えない国会
1991年
堂本暁子


国会議員になってからの2年半の間、私が友人や知人からいちばん多く受けた質問は「いま、何をしているの?議員になってからちっとも姿が見えなくなってしまった。何に関心をもって毎日どんな生活をしているの?」というものである。

アメリカの場合は一つの法案にどの議員が賛成し、どの議員が反対したかが、毎日、新聞に出る。有権者は「私はあなたに投票したのは、この法案に賛成してもらうためではない。」とか、「これには反対して欲しかった」といった注文が毎回事務所に殺到するという。

選挙の時だけではなく、自分が選んだ議員から有権者は目をはなさない。その材料をジャーナリズムが提供している。ところが日本では、国民から国会が見えないのみならず、個々の議員の姿、活動内容を知り得ないのである。

この2年間でけっこうユニークなことをやってきたつもりである。

優生保護法39条の附帯決議として「妊娠、出産、避妊は女性の健康の一環である」と入れさせたのだが、このことだけでもたいへんな力仕事だった。妊娠や出産、避妊が女性の健康の問題であるということは、私たち女性の側から言えばごくごく当り前のことである。

ところが、男性主流の国会では、こんな当り前の文章が通用しないのである。男性議員たちは、妊娠や避妊は「青少年の道徳の問題」であると主張するのだ。

出生率が下がった時も、男性議員は「どうしたら女は子どもを産むかなあ」と真顔で言う始末。まるで女性は子産みの機械のように、無機的に扱われている。出生率低下の背景には、女性の生活や人格、男女の関係性、毎月の労働の条件や子産み・子育ての住宅、保育といった環境の問題があるのに、与野党の別なく男性議員はそれには気がつかない。

だから、「女性の健康の一環として妊娠、出産、避妊を考える」という視点は理解できないわけである。この一言を入れさせるために一ケ月もの間悪戦苦闘してきた姿は、1行も報道されないから国会の外の女性たちにはつたわらない。

ここで問題になるのが、政治部記者の体質というか、取材姿勢である。政治部記者はアリバイ的に少数の女性記者もいるが、圧倒的に男性が多い。

記者たちは派閥の力学がどうなっているか、誰がどういう力学で総理に、閣僚になるかについて、夜打ち朝駆けで毎日大変に精力的・多角的な取材を展開しているが、国会で小さくとも、国民に興味あるネタを地道に探す努力はめったにしない。

例えば先ほど例にあげた「妊娠・出産・避妊」をめぐる議論が社会労働委員会の場で展開されている場合も、厚生記者会の記者は取材しているが、関心事ではないのである。

そんな時私は、1人で2役をやりたくなる。もし私がジャーナリストをやっていれば、女性の健康の問題と捉えるか、それとも道徳の問題と捉えるかという議論のプロセスを追い認識の違いを浮きぼりにして日本の女たちに報道したであろう。

ところが今の私は第三者の立場から無我夢中になって駆け回る当事者の側に変身して、「女性の健康」を日本の政治行政の場で実施させようとするから見えなくなってしまう。

福祉や環境の問題でも同じことである。新しい議論が出れば、その結果だけを政治部記者は書く。しかしそこに至るまでのプロセス、ドラマのような内容はめったに国民には見えないのである。これは国会の議論の中の政治的な部分、ホットな話題だけを取材する政治部記者の体質とその政治部記者のほとんどが男性である事と関係しているだろう。

社会部、あるいは生活部や文化部の記者の目での自由な国会取材が盛んになれば、新聞の記事、テレビの番組はずい分と変わってくるであろう。