月刊社会党
私が接したアル・ゴアの人と思想
1993年1月
参議院議員 堂本暁子


「堂本さん、彼はいつか必ず大統領になるわ」と言ったのは、92年の夏まで私の事務所にいたアメリカ人スタッフのジャネット・ヒルズでした。同年2月、私とともにワシントンへ行き、アル(アルバート)・ゴアの身近で仕事をしていたときのことです。

ゴアの名前は彼女も知っていたでしょうが、このときが初対面でした。ゴアはこのように人を魅きつける人なのです。私がゴアに初めて会ったのは、90年の2月、ワシントンDCでGLOBE(地球環境国際議員連盟)の総会が開かれたときでした。

GL0BEは米欧日の有志議員でつくる国際組織で、ゴアが総裁、日本の会長は自民党の原文兵衛参院議員が務めています。たまたま広中和歌子参院議員(公明党・国民会議)から「欧米の議員と親しくなるのにいい、小さな議連があるのよ。

一緒に行かない?」と誘われた私は、事務所に当時いたアン・レスターに相談しました。米上院のスタッフもしたことがある彼女は名簿を見ると、「ゴアは絶対友人になっておいたほうがいい人だし、他にも有望な人たちが入っている。行った方がいいわ」と勧めます。「言葉も分からないし」とまだ尻込みしていると「じやあ付いて行ってあげる」と言うので、彼女と一緒にワシントンに乗り込んだのでした。

そのときの会場は米上院の科学技術委員会室。私は新米で、環境問題もそれほど勉強していませんでしたから、ゴアをはじめとする各国の環境通の議員の話に目を白黒させていました。なかでもゴアは、たんに環境間題をよく知り、多くの論文や著書があるというだけでなく、行動する人なのです。

会議後に招かれた米議員宅でカクテルを飲みながら、彼はオゾン層破壊の実態を知るために南極に行ってきた話をし、「アメリカがCO2規制の期限を切らないのはおかしい」と、滔々と語りました。会議の直前にはケニアにも行ってきたそうです。

このように自分の目で事実を確かめ、論理を構築しながら、国内・国際政策を打ち出していく。すごい人がいるなあというのが第一印象で、そのときはあいさつを交わす程度しかできませんでした。海を越えた議会人の協力のなかでそれが急速に親しくなったのは、翌91年7月に、東京でGLOBE総会が開かれたときです。

これに先立って私は、GL0BEの中に温暖化、有害廃棄物、森林など七つの作業グループがあるうちの「生物多様性保護条約」をフォローするグループに入っていました。それで、日本で初めて開かれる総会の会場確保のために国会とかけあったり、京都観光の準備をしたりするかたわら、生物多様性保護の行動計画をつくるなどの作業を進め、米欧の議員とも頻繋にファックスで情報交換をしていました。

そんなある日、ゴアの事務所から、パプアニューギニアの森林伐採の現状が非常に深刻なので、GLOBEで取り上げたい。アメリカでは上下両院で決議を準備しているしEC議会もやろうとしているので、日本でも同時に取り組まないか--と言ってきました。実は、その問題を持ち込んだのは日本人でパプアニューギニア在住の清水さんでした。

彼女は、オーストラリア人のバーネットという人が書いた森林伐採についてのレポートを手に入れ、希少種の鳥や動物がいる熱帯林を伐採から守ろうと訴えていたのです。だから私は、ゴアから言われる2〜3か月前から準備していたので、すぐ一緒にやりましょうということになりました。

ゴアは早速、バーネットさんをアメリカに呼んで公聴会を開きました。日本にもバーネットさんが来るというので、それなら外務委員会に証人として出ていただこうとしたが、日本の国会は不思議なところで、これだけ国際化しているのに、外国人を証人にした例はないという。

それで仕方なく、質問するとき傍聴席にいてもらうことにしました。当日は、私が委員会室に向かう直前にゴア事務所から「こういう決議案を出した」とファックスが入るという状況で、日米欧の議会でぽぼ同時に同じテーマを取り上げたわけです。

私は質問で、日本企業の不正な伐採を規制すべきではないかとただしました。とくに価格移転と言って、現地では非常に低い値段で買い、香港あたりで価格を上げてしまう操作をやめさせない限り、パプアニューギニアは丸裸になってしまう。市場の論埋だけではなくて、地球環境の保全とのバランスを考えなくてはいけない、ということをテーマにしたのです。

後にゴアが書いた「地球の掟」(後述)を読んだら、ゴアはまさに同じ理念を展開していました。GNPがオールマイティではない、もっと環境のコストを計算に入れない限り地球はだめになってしまうと。当時はそういうゴアの考えをよく知っていたわけではありませんが、私も、自由競争でコストが安いからと、どんどん切る。しかもそういう企業にODAの融資が供与されている。

そのような形で伐採が進むことをなんとか止めなければいけない--と主張したのです。また私は、届いたばかりのアメリカ上院の決議を一言残らず読み上げました。ですから、アメリカ議会とEC議会でほぼ同様の決議がなされ、日本の国会では議事録に残ったわけです。

そして7月のGLOBE総会になりました。私がホテルでゴアにあいさつすると、彼は「おお、アキコ」と、すごく親近感を示してくれて、ワシントンで会ったときとずいぶん運う。何が起きたかと思うほどでした。実は私のスタッフが私の質問の議事録を英語に訳し、アメリカとヨーロッパに送っていた。それをゴアのスタッフが親切にも、訪日する際の資料の中に入れておいてくれた。それを彼が飛行機の中で読んでくれていたのです。

彼は「アキコ、あなたの質問の議事録を食い入るように読んだ。どんなに外務省の役人たちがとまどったか、表情が目に浮かぶようだった」と言う。ああそうか、やはり議会でいつもディベート(討論)している同業者だなと、そのときすごく思いました。

ゴアはたいへん言葉の豊かな人で、難しい英語で話すんです。私の英語力では、なかなか彼と議論するまでにはいかなかった。だから彼は議事録の翻訳を読んで初めて、私がどんなことを考えているかを知ってくれたのです。

「ゴア議長」のあざやかな手腕

この東京総会のときにとても興味深かったのは、彼らが政策・主張の内容はもちろん、それをアピールする演出にすごく気を使っていることでした。1か月くらい前から、照明はどうか、映像設備はどうかなどと問い合わせがくる。「ここで新聞やテレビにわれわれのグループがどのように出るかが勝負だ」と、ものすごく広報を重視しているんですね。そのための専門のスタッフもついてきました。

ゴアは総裁ですから最初に演説したのですが、そのときに衛星から撮った地球の写真を立体化した地球儀みたいな物を持ってきて、会場となった参議院の委員会室の真ん中に置いて演説を始める。そして人口増加と環境破壊の問題を語るときは、背後に人口のグラフが映し出される。世界の人口が10憶を超え、50憶を突破し、そして何年後には、と言うと、グラフは彼の背でも届かない高さまできている。

する、とスタッフがすっと椅子を出す。その上へぽんと乗ってグラフを指し示す。もう見事なパフォーマンスです。

声も朗々として、選び抜いた説得力ある言葉で、起承転結、緩急をつけて。そういうふうに演説そのものが組み立てられている。その後も国連の場などでなんどか彼の演説を聞きましたが、そのたびに工夫がこらされていました。まして大統領選挙となれば…。さらに見事に大勢の聴衆を魅丁していったであろう姿が目に浮かびます。

もうひとつ、この会議では、ゴアが議長として見せた本当に政治家らしい手腕も目の当たりにしました。実は、シアトルのほうから漁業組合をバックに出ているアンソルドという女性の下院議員が来て、日本のイカ流し網の禁止を主張した。

この流し網にはイカ以外に鳥とかイルカなどがかかってしまい、生態系を破壊するというので、自然保護団体の反発を買い、実際その後、国連で禁止されたんですが、このときは私が生物多様性の担当だというので、それを受けて立たなければならないはめになったんです。

私のほうは、「流し網で捕るアカイカは二年くらいしか生きない。とすれば、海洋資源として活用することを全く否定すべきではない。要は環境保全とのバランスであり、他の生物がかからないように工夫も始めている。たくさんの零細な漁民や加工業者の生活がかかっている」と主張する。

しかし向こうは絶対に捕るなという。まずスタッフ同士が一字一句で交渉し、最後は議員同士で深夜まで大激論を交わしたのですが、完全に平行線です。

GLOBEの行動計画は、採択するとそれぞれの国に持ち帰り政府に進言するものなので、日本の農水省もたいへん心配していましたが、議員同士の議論だから出る幕はない。私も国益に関わる問題ですから、役人にこれまでの外交交渉の経緯を間き、相談しながら進めましたが、議論の最中は彼らは傍聴席ではらはらしているしかないわけです。ついでに言うと、私は日本の国会でもこういう図が、あるべき姿だと思いました。

そして翌朝、再度交渉を始めようと思ったら、アンソルド議員が、「きょうはもう、アキコの主張を全部飲むわ」と言う。どうしたことかと元記者としていろいろ取材してみると、実はゴアの采配の結果だったんです。この会議で一番対立していたのが、この問題ともうひとつ、温暖化防止問題だったのですが、それらの表裏の交渉経過について、ゴアのスタッフは逐一情報を集めていた。

日本人秘書にまで夜中に電話して「明日アキコはどういう態度をとるつもりか」と取材している。そしてゴアはホテルでそれらをみんな突き合わせ、政治的に判断し、議長としてどう運営するか、筋書を立てていったわけです。そのなかでアンソルド議員には「この東京総会ではアメリカが引いておこう」と説得した。

そして翌日の議事でその部分にくると、「日米の女性議員がイカをめぐって激論を展開した。しかし、最後は日米の協力の精神でこういう一致に達した…」というように、ものの見事に処理したんです。単に役人の書いた答弁書を読むというようなのとは全然違う。議事の準備には朝四時くらいまでかかったそうですが。私は、ああ政冶というのはこういうものなのだ、とつくづく思いました。

「大事なのは女性の発想だ」とこの東京総会で私は、それまでオランダの議員がやっていた生物多様性グループの責任者を引き受けることになりました。ブラジルの地球サミットに向けて、私たちの主張をどう反映させていくのか、たいへんな仕事でしたが、各国の議員と接しながら、最高の学習のチャンスを得ることにもなりました。

そのなかで、ゴアと会うチャンスも増えたわけです。ジュネーブでの国連会議の際などは、ゴアのスタッフにもずいぶん助けてもらいました。私たちが生物多様性条約に盛り込むべき大事なことと考えたのは、

(1)原生的な自然だけでなく人間が住む農漁村や里山の生態系も大事にする

(2)バイオテクノロジーをめぐり技術をもつ北と豊かな生物種をもつ南の対立を解決するとともに、遺伝子操作の安全性を確保する

(3)生態系を守るうえで女性の果たす役割を重視する--という3点でした。それらの点は92年2月にまたワシントンで開かれたGLOBE総会で承認を受け、国連に申し入れていきました。ただ、実際に条約に盛り込めたのは女性の問題だけ、それも日本でなくオランダの政府に頼んで、書き込むことが可能になったのでした。

3月にニューョークで最後の地球サミット準備会が開かれたときには、ゴアもスピーカーとして来ていましたが、そのころには外国式に抱き合ってあいさつするほど親しくなっていました。そのときのゴアの演説にも、私はとても驚きました。彼は「産業革命以後、男性主導であまりにも経済成長、科学合理性優先の路線を突き進んできた。

その結果、地球環境はこれだけ破壊されてしまった。いまわれわれが大事にしなければならないのは、生活の場からの女性の発想だ」という意味のことを語ったのです。北欧の社会民主主義の国、とくにブルントラント首相のノルウェーのような国でなら不思議でばありませんが、アメリカは今回の上下両院選挙で女性議員が増えたとはいえ、まだ圧倒的に男性社会なのですから。

「家族を選ぶ」と語った彼が2月のGL0BE総会のときのことです。会議が開かれた上院から、下院の食堂へ昼食をとりに行った帰り、ゴア、アンソルドとともに両院の間の芝生を歩いていで、私は「もうすぐ大統領(プレジデント)選挙だけれども、出ないの」と間くと、彼は「ノー」と言いました。「家族との時間を大切にしたい」と。

一年前に、息子さんが九死に一生を得るような交通事故にあっていたんですね。それで彼の人生観もずいぶん変わったのではないかと思いますが、「もし今度の大統領選挙に出馬しなければ、一生チャンスを失うかも知れない。それでも私は家族と一緒にいることを選ぶ」と。

「それじやGLOBEのプレジデント(総裁)は続けられますね」と言うと、彼がげらげら笑いながら「GL0BEのプレジデントなら、家族と一緒にいられるからね」と言っていたのを、きのうのことのように思い出します。

その後の地球サミットのときには、ゴアから事前に「会議の合間に、アマゾンヘ行かないか」と誘われて、一緒に行く約束をしていたんですが、国会でのPKO法案審議の都合で、私はゴアがまだリオに着かないうちに、謝りの置き手紙をして帰国せざるをえませんでした。

そうしたら、その後何か月もしないうちに、彼は副大統領候補に指名され、クリントンとともに見事勝ち抜いたのです。だから人生は分からないと思いました。

アメリカではいま、クリントンの次にはきっとゴアが大統領になるチャンスがくるだろうと言われている。大統領になることより息子さんを選んだ彼が、不思議にもいま、大統領に一番近い道を歩き始めたのです。あれだけ環境問題に打ち込んだことが、彼の運命を決めたのではないかという気もします。

リオでブッシュ大統領は、生物多様性条約にサインしませんでした。次の世紀には生物産業で世界制覇をしようという産業界の圧力のなかで、彼はおそらく大統領選挙を意識したのでしょう。一方、ゴアはNGOなどをバックに、サインすべきだと演説して対決しました。どちらにとっても、政治家としての大きな賭けだったでしょう。

その結果は大統領選が示しました。私はゴアが当選した翌日、「あなたが副大統領になるなんて、なんて素晴らしいことでしょう」と手紙を書きました。そして「これで生物多様性条約にもアメリカはきっとサインすることでしょう」と付け加えました。

「戦略環境構想」ヘのチヤレンシワシントンで会ったとき、彼は出たばかりの著書「EarthinTheBalance」(邦訳「地球の掟-文明と環境のバランスを求めて」小杉隆訳、ダイヤモンド社)をくれました。そのときは、この本がアメリカでベストセラーになるとは思ってもいなかったでしょう。

この本を開くと、「地球サミット」を前に急に環境を語り出した、どこかの国のにわか環境政治家と違って、ゴアが長年「環境」について学び、考え、実践してきた経験に基づいて、確固とした理念、さらに信念で環境問題に取り組んでいることがわかります。書き出しは次のような文章です。

「これは私の25年以上に及ぶ探求の旅の本である。この探求の旅は、地球規模の生態系が瀕している危機を理解し、どうしたら解決できるかを見いだすためだった。

私は地球という惑星に起きている生態系破壊の現場を訪ね歩き、地球環境を守るために人生を賭けて闘っている世界中の素晴らしい人々に巡り会った」1962年、DDTなどの殺虫剤が生態系に与える影響を鋭くついたレーチェル・カーソンの「沈黙の春」が出ました。

この本を読んで感動したお母ざんは14歳のアル少年に「この本は貴重な本です」と説明したそうです。

そして彼は、ベトナム戦争での枯葉剤作戦に疑問を抱き、地球の温暖化に脅威を感じ、地球環境の視点から米ソの核兵器の削減を主張する。地球環境の危機と核兵器の管理を主要な政策に掲げて、1987年の大統領選にゴアは立候補を決意した。

しかし、このテーマは空振りに終わったようです。選挙民もマスコミも関心を示さなかった。ゴアが力めば力むほど「国立科学アカデミーの会員に立候補しているみたいだ」と悪口を言われるのが落ちでした。その意味で今回は、地球サミットの直後という最高のタイミングで、アメリカの環境派市民はもちろんのこと、ブッシュの消極的な取組みに反発した多くのアメリカ市民が、クリントン=ゴアの民主党ペアを支持したのではないでしょうか。

とはいうものの、政権を担当する側に立った時、ゴアが提唱する戦略環境構想(SEI、StrategicEnvironmentInitiative)が具体的政策として実行に移せるのでしょうか。アメリカの環境派市民もかたずをのんで見守っているに違いありません。SEIでゴアは、環境保全のためのコストを加えた新しいGNPの定義を主張します。

「我々の経済体制にも弱点があることは厳然たる事実だ。あるものは見えるが、あるものは見えない。資本主義体制は、買い手と売り手にとって最も重要な食べ物、衣類、工業製品、労働、そして貨幣そのものの価値の変動を注意深く計り、その価値の移り変わりを追いかけていく。

だが、その複雑な計算から、売り買いのできないものの価値が全く抜け落ちてしまうきらいがある。どんなものが抜け落ちるかといえば、新鮮な水、きれいな空気、山の美しさ、森の中の生命の豊かな多様性といったものだ。これはほんの一部に過ぎない。

この我々の現在の経済体制の見落としが、地球環境を結果的に破壊することにつながる強力な力になっている」GNPを経済的業績の進歩を測る唯一の測定値とすると、「GNPは環境の無計画な急速な破壊をよいこととして扱うことにつながってしまう」と、ゴアは述べています。

環境目的税の導入、自動車の燃費効率基準の引き上げ、電気料金の引上げなど、日本だったら通産省が絶対に反対するような政策が並んでいるのです。時間をかけ、世論に訴え、市民のコンセンサスを得る大仕事。民主党若手コンビの手腕が問われるところです。

「この本に盛り込んだ言葉は私の信念を表わすばかりでなく、変革を実践しようという決意を述べたつもりだ」とゴアは言います。「文明と地球との失われているバランスを回復するために、我々には未来があるという確信が不可欠である。人類の前にはニつの道がある。

我々の未来を信じ、それを達成し、守るために働く希望への道と、我々の遺産を受け継ぐ子供達など一人もいないかのようにふるまい、踊り狂いながら暮らす道である。

選択は我々の手の中にある。地球はバランスの中にある」ゴアは副大統領という格好の地位でアメリカの選択をリードすることになる。友人として心からの声援を送りたく思います。政治家としての勇気に。