堂本暁子の永田町レポート
小諸から世界へ、東奔西走の夏でした
1999年10月5日

皆さま 堂本暁子です。

小諸から世界へ、東奔西走の夏でした
この夏は長野県の小諸に居を移しました。95歳になる母が東京の暑い夏に耐えられるのかどうか、心配だったからです。戦時中、小学生の私は、別荘のあった沓掛(今の中軽井沢)に疎開したのですが、東京の家は戦災で焼けてしまい、戦後も信州に住みつき、すっかり好きになってしまいました。終戦の年に小諸の高等女学校に入学、帰りの列車を待つのはいつも懐古園。友だちと千曲川の流れを眺めていたときのことを思い出します。

縁あって2年ほど前に、懐古園の隣に家を借りました。昔と変わらない街の風情と、しっとりとした住む人の心配りを無性に嬉しく感じています。その小諸からドイツ、続いてヨルダン、席の温まる暇もなく韓国、そしてベルギー、スウェーデンと世界に出かけて行きました。

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IUCN北東アジア地域会合(ソウル)を開催
すでにお伝えしたとおり、世界自然保護連合(IUCN)の北東アジア地域会合を9月11日に開きました。残念ながら、北朝鮮は参加しませんでした。

私はこの地域から選出された理事として、ヨルダンで2000年秋に開催される「世界自然保護会議」に北東アジアとしてどのような形で参加するか、各国で検討していこう、と挨拶。さらに「アジアは、IUCNの区分では北東アジアと東南・南アジアとに分けられていますが、私たちは、自然も文化も共有しています。そこで今回はフィリピンの理事とバンコクの地域事務所から参加していただきました。今後もアジアの連携を強化していきましょう」と述べました。北東アジアの難しさは共通言語を持たないことですが、今後はニュースレターを中国語、モンゴル語、韓国語、日本語で発信し、情報を共有することになりました。

私たちが訪ねた江華島地域へは、古くはモンゴルが攻め込み、次にフランスが占領、さらに米国の占領の後、最後にやってきたのが日本、と聞いて、驚きを禁じ得ませんでした。米国が占領したのはわずか10日間。その後にやってきた日本とは平和協定を結んだにもかかわらず、最も長い間支配を受けることになった、とガイドの若いお嬢さんが説明するのを聞いて、21世紀は信頼と友情を深め、「良き隣国の時代」にしたいと強く思いました。

道中、大きく漢字で「気」とある建物があったので、隣に座っていた韓国人に聞いたところ、「病院です」とのこと。すると私の後ろに座っていた香港人が、左隣の台湾人が、そして私が次々と「気」という漢字を異なる音で発音し、爆笑。「気という字は発音は少しづつ違うけれど、北東アジアの人々が健康について考える言葉として共通なんですね」と私が言うと、一同納得。北東アジアが歴史と文化を共有していることを再認識した瞬間でした。

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要介護認定の開始に思うこと
10月1日から介護保険の要介護認定の手続きが始まりました。今になって家族介護に現金が給付されるとの変更がなされたことに対して、女性たちの間から反発の声が巻き起こっています。これまで、高齢者の介護の負担は嫁・妻・娘、と女性たちの肩に重くのしかかってきました。介護の社会化が目的であるにも関わらず、家族介護への現金給付は女性だけで介護を担っている現状を固定化しかねない、現物支給に徹するべき、というのが彼女たちの主張です。私は、介護保険の政策決定の場に関わった立場から、女性も男性も、家族みんなが生き生きと暮らすために、社会全体で高齢者介護を担うための制度でなければならないと考えています。

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¥(^o^)/ ^_^; 永田町レポートこと始めo(^-^)o (*_*)
最近国会議員のホームページが花盛りですが、私がEメールで永田町日記を始めたのは5年前。国会議員では一番乗りでした。きっかけは、やたらとパソコンに強い男性秘書に薦められてのこと。第1号は1994年12月5日。

永田町日記は、国会で取り組んでいること、もめていること、動き出していること、私の活動や関心を持っていることを発信します。お知恵拝借、ご意見歓迎します。(^^;)
このメールをニフティの掲示板に出したところ、1日で参照した人はなんと426人。しかも15人もの方からメールが届いたので驚きました。

いわく、「いよいよ”ハイテク議員”の登場ですね(笑)。 まずは歓迎いたします。通信の世界へようこそ!」 どうも歓迎されているらしいのです。\(^O^)/
「デジタルメディアは産業革命に匹敵するような社会改革の力をもっています。私が直接、政治家とコミュニケーションできるのも、テレビやラジオ、新聞などの旧メディア上では不可能なことです」たしかに。(^0_0^)
「堂本さんが比例代表の全国区であれば、有権者からの反応を聞くのに、パソコン通信は有効な一つの手段であると思います」

パソコンの世界は、もっと無味乾燥なのだと思っていたのですが、血の通ったしかも直接的なメールの往復にびっくり。新しい世界の発見でした。なかでも面白かったのは、「参議院議員 堂本暁子の名前を使っていたずらをしているのは誰だ?」とか、「返事を書くのに堂本さんのことは何と呼んだらいいのでしょうか?」という質問。「堂本さんでも暁子さんでも結構です」と私。もう1つEメールの世界で気にいったのは、私の文章をパソコン向きにリライトし、しかも笑顔(^o^) や怒った顔 (`o´)、悲しい顔 (;o;) をフェイスマークを使いこなす男性秘書の感性でした。若いだけではなく、時代の先端を行く、その表現手段に、すっかり私はのめり込み、約1年数ヶ月、永田町日記を出しつづけました。

その後自社さ連立政権で多忙を極め、約2年間のお休みはありましたが、最近はタイトルを「日記」から「レポート」に改名して、月2度くらいのペースで発信しています。
パソコン通信の世界を楽しむようになった理由の1つは、事務所のパソコンメンテナンスをしてくださる、因俊郎さんの存在です。因さんは、この道の達人で、最近「パソコントラブル西へ東へ三千里」という本を出版しました。その本の帯に、私は「コンピュータは無機的ではない。オープンで人間的。面倒なしがらみもない。だから本当のつきあいができる。」と書きました。

これからも、議員と市民の意見交換、知人・友人とのおしゃべりの場として、ホームページやEメールをどんどん活用していきたいと思っております。