「未知への挑戦」……マナスル、南極、チベットそして今も |
2005年11月18日 |
皆さま 堂本暁子です。 荒廃し、悲嘆のどん底にあった敗戦後の日本人に、明るいニュースとして希望を与えたのが、8000メートルの未踏峰マナスルへの登頂と、南極点への国をあげての挑戦と成功でした。当時、私は自然の中を散策するのが大好きな女子学生で、山登りに熱中し、マナスルにも係わるようになりました。 といったわけで、11月16日の朝日新聞夕刊の「ニッポン 人・脈・記 高い山へ地の果てへ 未知の『マナスル』を選ぶ」という記事に私が登場しているのです。 その内容は、マナスルの準備作業に「女子大の山岳部員も手伝いに来た。目立っていたのは千葉県知事の堂本暁子。東京女子大のリーダー格で、食糧の荷造りを引き受けた。カップめんもレトルト食品もない時代。米やみそを小分けしてポリ袋に詰め、アイロンを使って密封した。みそっかすなりに、ヒマラヤへのあこがれを登山隊に重ねてました」というものです。 そこで、これから先のストーリーを続けさせていただきます。 マナスルは、1956年、日本山岳会隊によって登頂に成功しました。その、およそ20年後の1970年代に入って、今度は日本女子マナスル登山隊が結成され、私も誘われました。そのとき、私は、隊員として参加すべきか、否か、とことん迷いました。探検好き、山好きであっても、既にジャーナリズムに使命感をもち、TBSの記者として仕事に全力投球していた私は、どうしても仕事を辞める決心はできませんでした。結局、取材記者として同行する道を選びました。 朝日新聞の記事の写真には、「アムンセンとスコット 南極に挑む」という本を持った私と、机の上のマナスルの写真が写っています。このマナスルの写真は、私がサマのベースキャンプにヘリコプターで入る際に撮ったものです。目の前に見える、マナスルの勇姿に吸い込まれるような思いで、シャッターを切った瞬間のことを今も覚えています。 マナスルだけではなく、その前に挑戦しようとしたのは、南極の昭和基地への同行取材でした。1968年に極点に挑んだ第九次隊に密着し、道が開けるのではないかと期待したのですが、TBSの局長に「男しか乗っていない観測船『ふじ』に女性記者を乗せることはできない」と言われ、この時は断念せざるを得ませんでした。 「アムンセンとスコット 南極に挑む」は、子どもたちに、地理的な探検だけではなく、科学やあらゆる分野で「未知の世界に挑戦してほしい」との思いを込めて、1988年に書いたものです。 ミクロネシアの島々や、北極海に浮かぶエスキモーの島へと、私は取材の旅を続け、1980年代の後半に入ってからは、チベット取材に挑みました。 強く印象に残っているのは、チベットとインドの国境にあり、仏教とヒンズー教の聖山であるカイラス山を訪れたときのことです。 1989年に国会議員になってからは、私のヒマラヤへの旅は中断しています。しかし、「未知の世界への探検の旅」という気持は失っていません。ジャーナリスト・国会議員・千葉県知事としての人生は、まさに未知の世界を知る旅でもあるのです。これからも、魅力ある冒険を重ね、人生の旅を続けていこうと、強く思っています。 |